プロローグD/月光荘
濃い緑のにおい。
その中にふと、甘やかな花の香りが漂ってきた。
―山梔子(クチナシ)だ。
記憶に色濃く残る、その香りにつられて顔を上げる。
庭園にある神殿風の装飾建築の中に、小さな泉が夜色の水をたたえ、月を浮かべていた。
その水面がゆらりと揺れ、淡い魔力の光を帯びていく。
泉の光は湧き出る水のように緩やかに増え、やがて一つの像を結んだ。
「………レラ」
緩やかなウェーブを描く長い髪、長いまつ毛に縁どられた瞳は黄金の輝きを宿す。
遠く懐かしい女性の姿がそこにあった。
レラは精霊の娘。
遠く時を経て力を失い、今はもう言葉も発せずかすかに漂うだけの存在だ。
それでも魔力の満ちた場ではこうして時折、アロウの前に姿を現す。
首元でロケットペンダントが呼応するように浮き上がる。
アロウはレラへと手を伸ばしかけ……
途中で降ろし、その手でロケットペンダントをそっと抑えた。
目を伏せ、そっとつぶやく。
「…ごめん。今は"仕事中"なんだ」
一秒、二秒。
時間の経過とともにペンダントの共振が収まっていく。
その時―
「ここにする」
フィリーの声が夜風に響いた。
「ここに、決めます!」
フィリーがはっきりと宣言する。
リルが面白そうに尋ねる。
「いわくつきだっていうけど」
「ここがいいの!お庭素敵だし!」
ばたばたと大げさに身振りで庭を示し、「絶対ここにする!」というフィリー。
「おい…」
「アロウは黙ってて!」
「…はい。」
アロウも声をかけようとしたが聞く様子はみじんもない。
ふと振り返ったが、そこにはもう誰の姿もない。
泉がただ静かに水をたたえているだけだった。
フィリーの勢いに慌てた担当者が書類をめくっている。
「お申し込みということでしたら、すぐに管理者の手配をいたしますので見つかり次第ご連絡を……」
「あ、それなんだけどさー」
横からひょこっとのぞき込むリルが唐突に提案する。
「―人手がないなら、便利屋の出番じゃない?」
「私は協会の職員であって、便利屋ではないのだが。」
応接間で書類のサインを終えた便利屋事業者協会の支部長、クロード・バルクロフトは渋面を隠さない。
「…申し訳ございません。」
「いいじゃん近くに来てたんだからー…いたっ」
たまたま営業活動で近くに来ていたところを、リルに呼び出されて急遽契約の場に引っ張り出されたのだった。
アロウは眉間のしわを深くして頭を下げ、リルはへらへらと笑って無言のアロウにしばかれた。
「では管理人業務の契約はこれで完了です。業務の引継ぎについてはご指定の日に担当の者が伺いますので」
契約を終えほっとした様子の不動産屋の担当者が書類をまとめ、一部を差し出す。
「こちらが控えと連絡先、それと管理用のマスターキーになります。」
「…はい。」
なぜか管理人業務を主担当として引き受けることになったアロウが受け取る。
「なんで俺…」
「他の任務は近場のものを優先して回そう。…お嬢さんにご不便をおかけしないように。」
クロードがアロウの肩をポンとたたく。
フィリーは大学へ飛び級入学するほどの優秀な学生で、協会は過去に彼女からの情報で有利に立ち回ることができている。
そのためクロードの信頼は厚い。
「飛び級となれば学舎では嫌でも目立つ。くつろげる居場所が必要だ。しっかり務めろよ」
「はあ…」
アロウは困惑した顔であいまいな返事をする。
協会は冒険者に限らず幅広く人材派遣業を行ってはいて、自分達も仕事と宿を探してはいたが…どうしてこうなったのか。
そこへ話は終わったとみてフィリーが飛んできた。
「契約終わった!?じゃあお部屋見に行こう!!」
「ちょっ…フィリー、引っ張るな!」
「どこにしようー!角部屋がいいかな!?」
そのままアロウをぐいぐい引っ張っていく。
助けを求める視線を送るアロウに、クロードは手を振って見送った。
「じゃあ一旦締めるぞ」
「はーい」
内見を終え、アロウがマスターキーで玄関の鍵を閉める。
不動産屋の担当者はクロードに挨拶し、先に門扉を出ていった。
今日の宿へと帰るフィリーはアロウとリルで送ることとなっている。
「明日は買い出しに行かなきゃ!アロウも来てくれる?」
「まあ備品の買い出しがあるし…いいけど」
「やったー!」
玄関ポーチでにぎやかに話している2人をほほえましく眺めながらクロードはリルに尋ねる。
「…それで?どこまでわざとなのかね?」
「えーなにそれ。」
いかにも心外といった様子でリルが答える。
「…ボクはね、星のめぐりがよさそうな方へ歩いてるだけだよ」
にこっ笑う彼の緑の瞳は、底知れない深さに沈んでいる。
「…まあ君の目的が何であろうと私は構わないが」
クロードは嘆息し、リルに歩み寄ると肩を拳で軽く叩いた。
「君はアロウの相棒だろう。…ちゃんと守ってやれ」
「わかってますようー」
口をとがらせるリルの軽い返事にクロードは
「やれやれ…」
とため息をついたのだった。
クロードがフィリーに暇を告げに行くと、入れ替わりにアロウがリルのところへ歩み寄る。
「どうした?何か言われたのか」
「なんでもないよー」
尋ねるアロウに答えるリルは、いつもの調子だ。
アロウはその表情を鋭い鋼色の瞳でじっと見つめている。
「なーに?そんなに見つめちゃって。なになに?ボクの可愛さに気が付いちゃった?」
ぷぷぷと笑うリルの額をアロウは黙って指ではじいた。
「あいたっ!何すんのこの馬鹿力!」
「……一つ借りにしておいてやる」
身を乗り出して抗議するリルに、手の中のマスターキーを弄びつつアロウはぽつりとこぼす。
そっけなく言い方ながらも、その目は柔らかな光が浮かんでいた。
リルは首をかしげる。
「ふーん?貸した覚えはないよ?」
「そうかよ。じゃあ勝手に借りとく」
そう言ってアロウはリルに背を向ける。
キーを軽く宙に放り、チャリンと鳴らして片手で掴むと肩ごしに振り返って言った。
「ほら行くぞ」
その目にほんの少しいたずらっぽい光を宿して。
「はーい」
リルはそれ以上何も言わず、軽やかな足取りで後を追う。
ガチャンと音を立てて鉄の門扉が締められる。
アロウが鍵を閉めている横で、リルはふと傍の門柱に目を留め、そこに絡まる蔦を手で払っていく。
その下から現れたのは、古びた銘板。
「なあにそれ?」
フィリーがのぞき込む。
「わあ、旧字体の装飾文字だね。綺麗…」
「この建物の名前だよ」
リルが示した文字をフィリーはうっとりと眺める。
「ええと、月・光・そう…荘か。…月光荘だって!」
フィリーが空を見上げる。
つられてリルもアロウも門扉の上、緑に囲まれた空を見上げた。
古びた館を、満ちた月が天頂から静かに照らしている。
静かな夜だった。
「あ、そうだ。リル、せっかくだからごはん食べてかない?」
「いいねえーじゃあ、アロウのおごりで」
「…予算は1000ベル以内で頼む…」
街へと戻ってゆく3人の背を、月明かりが柔らかく照らしていた。