第8話 忍び寄る影

「親父、野菜入りの麦粥を2人前。これに入れてくれ」
「あいよ!」
 アロウの注文に応じて店主が大鍋を開けた。
 湯気が勢いよく夕闇に包まれた空へと立ち上っていく。
 アロウとシンは、冒険者協会での手続きと商店街での買出しを終え、街の広場に立ち並ぶ屋台で夕食を調達していた。
 店主は鍋を底からかき混ぜ、アロウの携帯鍋に手際よく注いでいく。
「むぎがゆ?」
 見慣れないものに興味津々なシンが首を傾げてアロウを見上げる。
「麦を湯で柔らかく煮たやつだ。」
「…どろどろしてるね」
 鍋をのぞき込んだシンが顔をしかめる。
 見た目が気になるらしいが、漂う湯気に包まれると途端にふにゃりと表情を崩す。
「でもいい匂い…」
「やわらかく煮てあるから、おなかに優しい。明日に備えて体調を整えておくのも仕事のうちだ」
「…ごはん食べるのにめんどくさいこと考えるんだね。おいしくなくなっちゃうよ」
 シンにげんなりした顔をされて、アロウは虚を突かれた顔になる。
「そうか?」
 アロウにとって、食事は栄養補給にすぎない。
もちろんおいしければなお良いが、そこにあまりこだわりはない。
「そういうもんか…」
 シンを珍しいものでも見るようにしげしげと眺めていると、店主が戻ってきた。
「はいよ、2人前お待ちどおさん!」
 どん、と携帯鍋がカウンターに置かれる。
 茶色っぽいとろみのある汁は先ほど見たとおりだったが、緑色や橙色の野菜が浮かんでいる。
「わあ…」
 シンが感嘆の声を漏らす。
 いい匂いの湯気が鼻腔をくすぐり、具材が目に鮮やか。
 アロウは店主に礼を言って携帯鍋を受け取った。
 そしてよだれをたらさんばかりの顔になっているシンに差し出す。
「ほら、持っとけ」
「うん……ねえ、すぐ食べようよ!」
 ほかほかの湯気を惜しむようにシンは鍋をぎゅっと抱えると、広場を指さした。
 なだらかな丘にある街の広場は、円形の段が積み重なってできている。
 あちこちに設けられた短い階段には、屋台で買った食べ物をほおばる旅人や仕事帰りの職人たちの姿がまばらにある。
「ええっ、寒いけどいいのか?」
「平気だよ!あったかいうちに食べよ!!」
 アロウにとっては、食事の時間というのは無防備なので安全な場所で、という意識が強い。
 けれどもシンが温かな食事に向ける熱心な視線を無下にするほどのことでもない。
「…まあいいけど」
「やった!!どこにする!?」
「おいおい引っ張るな、危ない!」
 シンに腕を取られてアロウは引きずられるように石段へと向かったのだった。

 空いている石段にシンが腰掛けようとすると、アロウが制止した。
「ちょっと待て」
 鞄から大きめの布を取り出すと、折りたたんで敷物代わりにする。
「冷えるからこの上に座って」
「わあ…準備いいね」
「別に。こういうのは持っとくと、荷物を包んで鞄代わりに使える。」
 さらにカトラリーセットを取り出して、金属製のスプーンをシンに渡す。
 必要なものは何でも出てくる、不思議な鞄だ。
 アロウは自分用にもう一本取り出すと、鍋の蓋を取ってそこに自分用に中身をいくらか移した。
 そして残りを鍋ごとシンに戻す。
「ほら、どうぞ」
 2人前用の鍋は、半分よりも多く中身が残っていた。
 シンの視線がホカホカの鍋と、アロウの間をさ迷う。
「遠慮すんな、育ち盛りはたくさん食っとけ」
「……うん」
 シンはスプーンを握る。
 正直あまり持ち方がわからない。
 食器のある食事も、温かいご飯も、滅多に手に入らないものだった。
 スプーンを鍋に突っ込み、口から迎えに行くようにして食べようとする。
「あっ、ちょっと待て!熱いかも…!」
 アロウが気づいて制止した時には遅かった。
 カン、カン、カランと音を立ててスプーンが石段を落ちていった。
 口の中が痛い。
「……っ!」
「水飲め!ほら!!」
 口を押えて目を白黒させているシンに、アロウが水筒を差し出す。
 代わりに鍋を受け取ろうとするが、シンは手を離さない。
「落ち着け。何も取らないし、怒らない。大丈夫」
 布巾を取り出して口周りを拭いてやると、シンは涙目になっていた。
「うええ…ボクのむぎがゆ…」
「…俺のやるから」
 ため息をついてアロウは水袋を押し付けると、飛んで行ったスプーンを拾いに立つ。
 その背中をシンは水袋に口をつけながらぼんやり見送った。
(しんせつだ)
 アロウはシンから何も取り上げないし、シンにいろいろなものをくれたり、代わりにしてくれたりする。
(「相棒」だから…?)
 これは普通のことなんだろうか。それとも…
 考えているうちにアロウが戻ってきてシンの横に腰掛ける。
 そして自分のスプーンと器を手に持ってぐるぐるとかき混ぜてみせた。
「熱いときはよく混ぜて、冷まして食べるといい。…こういうふうに」
粥をすくったスプーンにふうっと息を吹きかける。
 器から立ち上る白い煙が飛ばされていくのをシンは目で追いかける。
「ほら、口開けて」
「え?」
 振り返ると、目の前にスプーンがあった。
 おいしそうなにおいにつられて思わず口を開けると、そっとスプーンが押し付けらる。
 傾けられたスプーンから熱くもなく、冷たくもないものが流れ込んでくる。
 あたたかくて、甘かった。
「ほら次」
 アロウがまた、自分の器から粥をすくい取り、冷まして差し出す。
「じ、じぶんで食べれるよ」
「熱いの慣れてないんだろ」
「…うん」
 本当は、自分で食べたら鍋自体が冷えるまで待たなくてはいけない。
 スプーンに慣れていないからだ。
 だからシンは言われるまままたアロウの差し出すスプーンに口をつける。
 頬が熱いのは、粥のあたたかさのせいだろうか。
 再び粥を吹いて冷ましはじめるアロウを見上げて、することもないシンは呟く。
「…おいしい」
「そりゃよかった」
 街の明かりに照らされたアロウは、かすかに頬を緩めているように見えた。
 柔らかいその表情に、シンはなぜか胸の奥で何かが跳ねたような心地がしたのだった。

「ごちそうさまでした」
 食事を終えたシンは食器を片付けると、教わったばかりの礼をアロウに述べる。
 そして、服のポケットから銅貨を3枚取り出した。
「これ、今晩の宿代」
「律儀だな」
 アロウはシンの掌の銅貨をちらりと見降ろして、嘆息する。
 衣服の準備などで支払いがあったので、これを受け取ればシンの手持ちはほとんどなくなってしまう。
「何もなくても一晩くらい泊っていいんだぞ。もう知らない相手でもなし、追い出したりしない」
「ううん…払う。」
 シンは銅貨を握り、アロウの胸元に押し付ける。
「アロウも薬屋の人も、ちゃんとした仕事をする人だ。お金を払ったらその分のものをくれるでしょ」
 そう言って視線を泳がせるシンは、どこか不安そうだ。
 無償の申し出は、シンにとっては恐ろしいもののようだった。
 あるいはこれまで、親切な顔をして近づいてきた相手に騙されたことが何度もあるのかもしれない。
 先日の露天商のように金を渡しても騙してくる相手もいるのだが、差し当たりアロウや月宵堂は間違いのない相手と判断しているのだろう。
 今はそれでお互い少しずつ信頼を積み上げていくしかない。
「…わかったよ。これは受け取る。」
 アロウがそう答えると、シンはほっとした顔を見せた。
「じゃ、帰ろっ!」
 そう言って、ぱっと立ち上がる。
 アロウは慌てて敷物にしていた布を払い、回収する。
「あ、雪!」
 シンの声に見上げれば、すっかり暗くなった空に白いものがちらほらと舞っていた。
「濡れちゃうよ、早く早く!」
 路上生活の長かったシンにとって体温を奪う風雨は天敵のようなものだ。
 足を早めて宿へと一目散に向かおうとする。
 最短距離の脇道へと駆け込むと、あたりは一気に暗くなる。
 その奥底でかすかな息遣いが漂っているのを感じ取り、シンは足を止める。
 自分のような浮浪者が潜んでいるのだろうか。
「…だれかいるの?」
 広場の灯りに慣れた目は、暗闇の底にいるものをまだ捉えられない。
 踏んでしまっては厄介だと、シンは慎重に歩みを進める。
 ぶわりとぬるい風が道の奥から吹きあがった。
 本能的に、シンの背中を冷たいものが駆け上る。
(なにかいる?野犬?)
 まるで、獣の息遣いのようだった。
「シン、あまり先に行くなよ。部屋の鍵は俺が持ってるし、今灯りを…」
 アロウの声が遠く後ろで響く。
 すぐに駆け戻りたかったが、背中を見せたら何かが追ってきそうで動けない。
 目は真っ暗な通りの奥に釘付けになったまま、動かすことができずにいた。
 ようやく慣れてきた目が、わずかに動くものを見つけた。
 背後から差し込む広場のわずかなの灯に、金色の光をはじくものが二つ。両の目だ。
 それ以外は暗い影に潜んでいて形を掴むことができない。
 ただ、目の間隔からしておそらく野犬よりもずっと大きい。
 呼吸で上下する瞳と、わずかな息遣い。襲い掛かかる隙を窺うかのように、じっとこちらを見つめている。
 そう認識した途端、シンの肌が粟立つ。 
 思わず後ずさると、背が何かにぶつかった。
「ひゃあっ!」
「おわっ、どうした?」
 緊迫感のないアロウの声が頭の上から降ってくる。
 思わず振り返ると、赤い瞳と目が合った。
 そこには純粋に疑問と心配だけが浮かんでいる。
 シンはこれまでそんな目を向けられたことはない。
 ほっとすると同時に、見たものを知らせようと奥を指差す。
「あ、あのね、なんか……なんかいた!」
「ん?野犬でもいたのか?」
 アロウはシン越しに路地をのぞき込む。
 そして手にしたランタンを差し出して照らし出す。
 建物の戸口の横に積まれた荷箱や木材が暗い影を落とす他はなにもない。
 野犬はおおか、猫やネズミでさえ動くものは見当たらなかった。
「あ、あれ…?」
 シンは目をこする。見間違いだろうか?
 間近に感じた息遣いも、嘘のように消え去っていた。
 アロウは二、三歩進んであたりを見渡してから、振り返る。
「何かいても追い払うけど……違う道から帰るか?」
 気遣うような表情に、シンの頬に血がのぼる。
 アロウは些細な不安でも全部拾い上げようとしてくれる。
「ううん、いい。」
 誤魔化すように言って、シンはアロウを追い越して歩き出す。
 これ以上アロウに世話を焼かれるのは、なんだか……困る。
「濡れちゃうから早く帰ろ!」
 重く垂れこめる曇り空を振り切るように、シンは石畳を蹴った。
 二人分の足音が灯りとともに路地の奥へと消えていく。
 通りに再び闇が降りると、再び生ぬるい風がふうっと吹き抜けていった。
 冬の始まりを告げる夜は、静かに更けていった。