第5.5話 ひと時のぬくもり
外は昨日と変わらず雨続きだった。
強くなったり弱くなったりはするものの、雨が止む気配はない。
月宵亭から戻った午後、シンはベッドに腰掛けてガラス越しに雨を眺めていた。
足元には火鉢が置かれていて、質素ながらもちゃんとした布団がある。ついでに朝食もついていた。
なんて贅沢なんだろう。
部屋の主である青年は、心配になるほど気前がいい。
昨日はうっかり寝落ちしてしまったけど、本気で迫ったら案外簡単にころっと落ちて、結構巻き上げることができるんじゃないだろうか。
でも初心な相手にやりすぎるとこじれて面倒なことになったりするかも…
などとシンが唸っていると、扉が開いた。
ノックもなしに足でドアを開けた青年・アロウは、両手で大きめの桶を持っている。
ほかほかと湯気が上がっているところを見ると中身は湯のようだ。
ほのかに爽やかな香りが漂っている。
「なにそれ?」
「足湯。」
ベッドの足元に桶を置くと、アロウはシャツの袖をまくった。
「お前、ぼろぼろの足布で歩いてきただろ。」
そう言って部屋の隅に張った洗濯紐の方を指すアロウ。
そこにはシンが靴代わりに巻いている足布が服と一緒にぶら下がっている。
そしておもむろにシンの足を掴んだ。
「泥だらけだから一旦きれいにする。」
「ぎゃっなにするの!!」
シンは反射的に振り払おうとする。
「うるさい。ベッド汚すと女将に怒られるんだよ!俺が!」
ぎゃーぎゃーばたばた大騒ぎの末、アロウは何とかシンの足を湯桶に浸からせる。
ベッドに派手に水滴が飛び散ったから結局怒られるかもしれない。
シンは一旦湯につかるとおとなしくなった。
「ふわあー」
こてんと上半身がベッドに倒れこむ。
宿なしのシンには、湯を使う機会がほとんどない。
お湯の中はポカポカして暖かかった。
アロウがその足をそっと手で支えて布巾で拭っていく。
その手つきは先ほどのぞんざいな扱いと違って、丁寧だった。
「貴族みたい」
「お貴族様はもっといい香油とか使うんだ」
ぷっとアロウが笑う。
「どっちかというと赤ちゃんだろ…あっ蹴るなこら」
濡れるのは覚悟していたのか、アロウはさほど怒らない。
再びシンの足を湯につけると今度は揉み解していく。
湯のいい香りが部屋に満ちていく。
シンの知らない、下町の泥臭い街並みの中には存在しないにおいだ。
「このにおい何?」
「ヨモギとかの薬草。保温とか血行をよくする効果がある。…しばらく浸かってろ」
シンの足をそっと湯の中に降ろすと、アロウは手を離す。
そしてベッド脇の梯子を上り、二段ベッドの上に姿を消したアロウはしばらくごそごそと何か荷物をいじっていた。
やがて上から何かが投げ落とされてくる。
ぼとっとシンの目の前に落ちたそれは、ブーツだった。
「サイズ合わないだろうけど、ないよりましだろ。詰めものしてやるからそれ履いとけ」
「えー…おじさーん、水虫移らない?」
「誰がおじさんだっ」
べしっとシンの頭に布が投げつけられる。
「前の足布はボロボロだからそれ巻いて。これで心配ないだろ?」
言いながら戻ってきたアロウはシンの足を乾いた布巾で拭ってベッドの上に押し上げる。
一瞬、足先をアロウの手がふわっと包んで、離れた。
「…冷たかっただろ」
床に膝をついて桶を片付けるアロウが小さくつぶやいた。
「みんなこうだよ。靴なんて持ってない」
シンの声は当たり前のことを語る口調で、そこには悲しみもつらさもない。
「…そうだよな」
「だからね、靴はいらないかな。…あったかいのに慣れたら戻れなくなっちゃうから」
シンはベッドの上で足を抱える。
アロウは困ったように頭をかいていたが、ブーツをシンに押し付ける。
「仕事の間だけでも使え。言っただろ、体を動かして稼ぐ。足に怪我されたら困るんだ」
「でも」
「仕事に関しては指示に従ってもらう」
「それずるくない?」
言い合いをしながらもアロウは落ちていた新しい足布を拾い上げて、手際よくシンの足に巻いていく。
「靴を買えるくらいにはなるさ、そのうち」
丁寧に布の端を折り込むと、足をぽんと叩く。
「そうかなあ…」
シンは苦い笑いをこぼす。
ちょっと働いたくらいでは支出が多いシンの生活は楽にはならない。でもそれはアロウは知らないことだ。
無闇に話して可哀想がられるのも嫌だったから、シンは言葉を濁し厚意に甘えることにした。
(ああ、本当に戻りたくないな…)
明日の晩にはまた路地裏で震えることを思うと、もう胸が詰まるような思いがした。
帰りたくない、でも「ここに置いて」とすがることもシンにはもうできなかった。
アロウがちゃんとした人だからこそ。そんなことはしたくない。
「大丈夫だ」
知ってか知らずか、アロウは安心させるようにシンの頭を撫でてくる。
シンがうつむいた拍子に、布団の掛布に散った水滴のあとが1つ増えていた。